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若枝と砂漠の地から出る根のように育った主イエス様

イザヤ書 53章

人間の罪ゆえの盲目状態、鈍感、真実と事実の矮小化は、自然観察に見られる。罪人である人間は、その罪ゆえに、ありのままの自然にある秩序を見られない。その知恵を見つけられない。そのいのちのたくましさもわからない。いのちの弱さを慈しむ、丁寧な取り扱いもできない。正確には、そのわずかなものしかわからない。
自分にとって、見とれるような姿だけに心を留め、輝きがなければ無視する。人間が慕うような見栄えがなければ、何も感じない。主イエスは、そのような人間の罪深さを示すために、人の子として歩まれた。あえて、蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人となられて、病の深みを知っておられた。なのに、人が顔をそむけるほどにさげすまれ、神の民さえも、そのような救い主の姿を認めず、尊ばなかった。
このような人間の罪や、教会の罪は、今も続いている。神は、人間が罪ゆえに荒野にした地に、その厳しい環境に耐えられるように、わずかな水を集められる機能をもった「根」を見させてくださる。
どうして、岩の上に、木が張り付くように芽生え、成長し、大きくなるのか。それは、その根が、降り積もる落葉にある菌に生かされて、成長する。その栄養分はギリギリなのに、しっかりと捕えて成長する姿を見る。落葉は、私たちの思いをはるかに超えた事をする。葉が落ちて終わりではない。その葉が菌によって変容することにより、新たな種が芽生え、小さな葉を出し、その菌床に育てられて、成長し、岩を咬むほどの大木になる。渓流の岩場に見られる、美しい光景となる。
自然観察で、その環境が厳しいほど、知恵に満ち、不屈な根が育つことそのものが、罪人に、その罪ゆえに浅薄な生き方に恥を与え、尊い生き方を指し示す。その中心で、最高な生き方こそ、預言されている主イエスに見られるのである。主イエスの生き方こそ、福音的な持続可能な生き方で、罪人に罪をわからせて、信仰に導く、尊い福音的な生き方である。

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